東京高等裁判所 昭和61年(う)1167号 判決
被告人 唐澤民
〔抄 録〕
被告人は、昭和六一年二月二七日午後三時四五分ころ、東京都渋谷区神宮前六丁目一番九号所在株式会社キディランド原宿店において、同店店長の管理するボールペン三本並びにショルダーバック及びセカンドバック各一個を窃取し、そのまま同店から立ち去ろうとし、同店出入口から出て、同店前道路を同店北側カフェ・ド・ロペ前付近に進んだところで、被告人の右犯行状況を終始目撃していた同店警備員小路美子及び同女から協力を要請された眼鏡店店員宮下重信らに窃盗犯人として捕らえられて、同店六階保安室に連れ込まれた。
同室では、小路及び宮下が、被告人の抵抗を排しながら、警察に事件を通報し、更に、被告人の所持品を検査して盗品を確認していたところ、間もなく通報を受けて神宮前派出所勤務の警察官狩谷慎吾が同室に来たので、事情を説明し、同警察官に被告人を引き渡した。同警察官は、小路らから説明を受けた後、被告人に英語で簡単な事情聴取を行なった後、被告人を神宮前派出所まで同行して、同派出所で被告人を取り調べることにして、被告人に対し、英語で「これから一緒に警察に行きます」「決して逃げるな、今すぐお前を逮捕はしない」と伝え、被告人もこれを了解した旨答えたので、同警察官は、手錠を掛けることなく被告人を伴って同室を出た。その際、宮下が被告人の所持していた手提げ袋に盗品や被告人の所持品を入れてこれを持って右派出所まで行くことになり、右三名が一緒に同室を出て、エレベーターで一階に降り、同店裏通用口から脇道を通り、表参道通りとの交差点に出て、同派出所に向った直後の午後四時ころ、逮捕を免れんとして被告人が急に走り出し、かなりの数の自動車が走行しているのを無視して表参道通りを横切り、向いの路地に駆け込んだ。
同警察官及び宮下は、すぐに被告人の後を追い、被告人が、前記キディランド裏通用口付近からおよそ百数十メートルないし二〇〇メートル離れた同区神宮前四丁目二八番一五号所在の計測工業株式会社駐車場において、駐車中の自動車の蔭に潜んでいるところへ、同警察官が、続いて宮下が駆け付け、同警察官及び宮下が示し合せて、被告人の前後から近づき被告人を捕らえようとしたところ、被告人は、近寄ってくる宮下に対していきなり同人の左顔面を手拳で一回殴打する暴行を加えた。宮下は一端はひるんだが、すぐに同警察官と協力し、逃げようとして暴れる被告人をその場で取り押えた。その際、被告人の右暴行により宮下は加療一〇日間を要する左顔面打撲挫傷(深さ一ミリメートル、長さ五ミリメートルの傷で、受傷時には出血していた)の傷害を負った。
との事実を認めることができる。≪中略≫
右認定の各事実によれば、被告人の宮下に対する本件暴行は、本件窃盗現場とは場所的に百数十ないし二〇〇メートル離れ、時間的にも約一五分を経ているにすぎないところで行われたこと、被告人は宮下らに一旦逮捕されて前記保安室に連れて行かれ、同室に十数分留め置かれた後、通報を受けて来た警察官に引き渡されたが、警察官による逮捕がなされることなく、事情聴取のため最寄の警察派出所に同行を求められ、その途中、逃走を図ったものの、右警察官及び宮下に追跡され、その際宮下に対し逮捕を免れる目的で本件暴行に及んだとの経緯があることが認められ、これによると、右宮下に対する本件暴行は、本件窃盗の機会に行われたものと認めるに十分であり、かつ、逮捕を免がれる目的をもって行われたものであることは明らかである。≪中略≫
前記認定の事実によると、被告人は店員等私人によって一旦は逮捕され、同店保安室に連行されて盗品を取還されたうえ、通報により駆け付けた警察官に引き渡された後、不拘束のまま右保安室を出て、派出所に同行されようとした、という一連の行為が介在していても、警察官による逮捕行為がなされていない本件においては、被告人の身柄が完全に確保され、最早、窃盗犯人が、窃盗現場において、逮捕を免がれるための暴行等を行う余地がないような客観的状況にあったとはいえず、これによって窃盗の機会性が失われたということはできない。
(石丸 新矢 日比)